桶狭間の戦いで信長が負けていたら

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桶狭間の戦いとは、1560年に尾張国知多郡桶狭間で織田信長軍と今川義元軍の間で行われた合戦です。この戦いで信長は奇襲攻撃を仕掛けて今川義元を討ち取り、東海地方の覇権を握りました。この戦いは信長の台頭と天下統一への第一歩となり、日本史に大きな影響を与えました。

しかし、もし桶狭間の戦いで信長が負けていたら、日本史はどう変わっていたでしょうか?この記事では、その可能性について考えてみます。

信長が負けた場合の影響

まず、信長が負けた場合、尾張国は今川義元によって制圧される可能性が高いです。信長はまだ尾張を完全に統一しておらず、家臣団も不安定でした。桶狭間の戦いで敗北したことで、信長の権威は失墜し、反対派や離反者が増えるでしょう。また、今川義元は信長を討ち取るか捕らえるかすることで、尾張の人心を掌握することができます。

信長が没落した場合、天下統一への野望は潰えるだけでなく、生命も危険にさらされるかもしれません。信長は桶狭間の戦いで奇襲攻撃を仕掛けたことで、今川義元から恨みを買っていました。今川義元は信長を討ち取った後、その首を京都に送って将軍足利義昭に見せつけるつもりだったという説もあります。もしそうだったら、信長は歴史上の英雄ではなく、無名の敗者として忘れられていたかもしれません。

今川家の勢力拡大と三国同盟の強化

桶狭間の戦いで信長が負けていたら、今川義元は尾張を制圧し、さらに京都への進出を目指したでしょう。今川家は駿河・遠江・三河の三国を支配し、東海地方の覇者となりました。また、今川家は武田氏・北条氏と甲相駿三国同盟を結んでおり、この同盟は桶狭間の戦いの後も続きました。この同盟は東国から中央へと勢力を伸ばすことができる強力な連合でした。

徳川家康の苦境と織田家の衰退

桶狭間の戦いで信長が負けていたら、徳川家康は三河を失い、今川家の臣下として生きることになったでしょう。家康は今川義元に人質として送られており、桶狭間の戦いでは今川軍に従って出陣していました。もし今川軍が勝っていたら、家康は自分の領地を奪還することも、信長と同盟を結ぶこともできなかったでしょう。家康は今川家に従属するか、あるいは反乱を起こして自立を図るかの二択に迫られたでしょう。

一方、信長は桶狭間の戦いで敗れて尾張を失ったら、織田家は衰退していったでしょう。信長はまだ尾張を完全に統一しておらず、内紛や反乱も多かったです。もし信長が敗死したり捕虜になったりしたら、織田家は分裂や崩壊の危機に陥ったでしょう。信長の跡を継ぐ者も見当たらず、残された家臣や兵士も散り散りになったでしょう。

今川義元が京都に入城し、足利義昭を廃して足利義栄を擁立する

桶狭間の戦いで信長が負けていたら、室町幕府と足利義昭の運命はどうなっていたでしょうか?一つの可能性として、以下のような展開が考えられます。今川義元は桶狭間の戦いで勝利した後、尾張・美濃・近江を制圧し、京都に向かったでしょう。京都には三好三人衆が支配しており、彼らは今川軍に抵抗することはできませんでした。今川義元は京都に入城し、朝廷や幕府と交渉を始めたでしょう。

今川義元は足利義昭を廃して、自分の傀儡として擁立した足利義栄を将軍にすることを望んだでしょう。足利義栄は三好三人衆が擁立した14代将軍であり、今川家とも縁戚関係にあったからです。今川義元は朝廷や幕臣に対して、足利義昭が織田信長と結んで反乱を起こしたことや、上杉謙信と通じていたことなどを理由にして、彼を廃位するように迫ったでしょう。

朝廷や幕臣は今川義元の圧力に屈せざるを得なかったでしょう。足利義昭は将軍の地位を失い、捕らえられるか殺されるかの運命にあったでしょう。室町幕府は今川家の傘下に入り、その影響力は大きく低下したでしょう。

まとめ

  • 桶狭間の戦いで信長が負けていたら、今川義元は京都に進出し、足利義昭を廃して足利義栄を擁立する可能性がある。
  • 徳川家康は三河を失い、今川家の臣下として生きることになる。
  • 桶狭間の戦いは日本史において重要な分岐点であり、その結果が違っていたら、その後の歴史も大きく異なっていたでしょう。
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